listen こえびメモ

リスン・デザイン こえびのブログ

日々感じていることをつらつらと書きます。

心のあばらをぎゅっと締める

 

どうでもいいことを書く。

 

最近会った友人と、ヨガのことで盛り上がった。

ヨガはほんとうにすごいと思っている。

 

どんなに仕事が忙しくても、お金がなくても、

ヨガだけは続けていくことを決めている。

 

心技体という概念は武士道からきているそうで

心と身体の噛み合いが整うことで、技を発揮できるということだ。

ほんとうにその通りだと思う。ヨガの先生は全員すてきだから。

 

身体を使うことで、頭でっかちなマインドが収まり

心と身体をぴったりくっつけてくれる気がする。

わたしは心と身体がふわっと離れやすい

ヨガは接着剤みたいに土の上にいることを思い出させてくれる。

だから人は、土や植物にふれたいと願うのではないかと思う。

 

 

 

 

近ごろ、あばら骨のことを意識している。

胸で浅い呼吸をしているとあばらが開いてしまうようで

胸の下にぷよぷよがついてしまうのは、そのせいみたい。

 

先生はよくこのような表現をする

「あばらを一本一本、丁寧にひだを閉じていくようにぎゅっと締めましょう」

意識がぐっとお腹に集中する。

わたしはこのときの身体の感覚をよく思い出している。

 

 

 

 

 

年末にかけて、いろんな変化があって

すべてが正しかったのかどうかはわからないのだけど

わたしは、心がとても、楽になっている。

波は凪いでいて、とても静かで

遠くがよく見える。空気が澄んでいる。

 

ひとりは寂しいと思いながら

実のところ、ひとりになりたかったのかもしれない、と思う。

とにかく思考の煩わしさから逃れて、自由になりたかった。

 

矛盾した正反対のベクトルを抱えていると、どちらがほんとうか難しくなる。

決められない時は、ほんとうの声が小さくなりすぎているし

それ以外の声が大きくなりすぎている。

つまるところ

わたしの部屋には、いろんな心がたくさん紛れ込んでしまっていて

どれが自分の心なのかわからなくて辛かったのだと思う。

 

ぐちゃぐちゃだった心が

ようやくひとつの形を持って自分の中に浮き上がってきたとき

それを信頼できる人に預けてみようと思った。

それはきっと、わたしの精一杯の甘えで

その甘えのなかにはお砂糖と同じくらいお塩が入っているけど

きっと分かってくれると信じている。

 

ほんとうの気持ちなんて

わかってくれる人にしか言ってあげない。

 

 

 

 

 

 

ヨガで身体に意識を向けるように

心のあばらをぎゅっと締める、ということを

ここしばらく、意識してみている。

 

心がざわざわしている時は、

心が広がりすぎている時だと思っている。

 

意識のなかで

いろんな人が頭に浮かんでくる。

誰かのリズムとか、感覚とか、気配とか

最近会った人の表情だとか、心配だとか

世の中のムードとか、人混みのノイズだとか

自分じゃないものを、ひとつずつ、丁重に外に出していく。

 

そうしてドアを閉める。カーテンを閉める。

そうしてようやく、心がほっと、息をつく。

心の部屋で、完全に一人になるためには

このようにイメージしなくてはならないほど

わたしの心はわたしの方を向くのが苦手なのだ。

 

 

 

 

 

 

年末に実家で大きな断捨離をしたとき

学生のときに作った作品のラフがたくさん出てきた。

理屈っぽさは今の何倍もすごくて

頭でっかちな鬱陶しい文章ばかりでしかもかなりくどいのだけど、

このときの作品のなかには、自分自身しかいない。

自分で自分のためにデザインしたものだから。

 

それは今見てもなかなか面白い思考の過程をしていて

作り上げたデザインはしょぼいのだけど

新しい気持ちと向上心とピカピカの気合いに満ちている。

おもろいやん、どうでもいいとこにこだわってて、と愛おしい。

制作中はあれほど自信がなかったのに。

 

 

高校の時にはじめて描いた油彩の自画像を

両親がずっとリビングに飾っていたのだけど

なぜかこちらを見下ろしているようなアングルでとても怖い顔をしている。

妙に暗い絵で、筆遣いも色使いも大きく荒々しいので

こんなの怖いだろうによく飾るなと恥ずかしかったのだけど

とてもまっすぐでこちらに刺さるような感覚がある。

きっと絵の中にしかぶつけられない感情があったのだろうが

昔は好きじゃなかった自分の作品が、

今愛おしく感じるのはなぜだろうか。

 

 

ポートフォリオサイトを見てくださった方が褒めてくれて

あんなしょぼいのよく見てくれるなと思いつつ

久しぶりに自分のサイトを見返してみると、

数年前にぜんぜん納得できなかったいろんな部分が

冷静にみると、そう悪くないような気がしてくる。

 

丁寧に作ったのに、恥ずかしいと思っていたんだな、と思う。

その感覚が邪魔をして、自分に心を向けることができない。

 

 

 

 

 

最近、友人と話している時、

「千夏ちゃんは、自分のことを過剰に『劣っている』と思いすぎている」

と言われて、はっとした。

もともと劣っている分、努力してようやく人並みになれるのだという

それは漠然と昔からある感覚で、まさかバレているとは思わなかったし

そう思うことで自分から逃げているのだとしたら、ださいね。

 

自分のなかにあるコンプレックスの多くは、

たいてい自分だけが気づいていない状態で、盛大にダダ漏れていて

そうなのだとしたら、隠すこと自体、馬鹿馬鹿しいことかもしれない。

 

 

 

 

その友人と最近、ささいな言い合いをした。

ちゃんと言い返せるってすごい進歩だと思う。

何を言っても、何を言われても、

ぜったいに、相手を嫌いになったりしない。嫌われたりしない。

それが分かっているから、ほんとうに思っていることが言えるのだということ。

少なくともわたしにとっては、それは簡単なことではない。

 

彼女の前だと

自分がいかに、しょうもないところがあるかがよくわかる。

「もう無理だよ、やっぱ一緒にやるのやめよう」とか

全部白紙に戻そうとするのはいつも自分の方で

すぐ別れ話を持ち出す人みたいでださいのだけど

その試みは、自分にとって、それほどに怖いのだろうと思う。

 

 

怖いのだ。

逃げていることに気づかないくらいに、

自分自身を開いていくということは。

 

 

彼女が何度も何度も何度も、根気強く励ましてくれるので

「わたしなんかでもやれるのかなあ」と、涙が出る。

最初はみんな、初めてなんだよ。

ただ覚悟を決めるんだよ。

できなくても、やるんだよ。ぜったいできるから。

 

「できないならいいよ、じゃあもうやめよ」って

そんなふうには一度も言われなかった。

ぜったいできるよって、励ましてくれた。

 

わたしもそんなふうになりたいと思う。

 

 

 

 

 

 

遠い遠い昔に作ったものが、思い出させてくれる何か。

落っことしてしまった大切な欠片を

拾い集めるというのはこういうことなんだろうか。

少し前にそれに似たことを言われた気がする。

 

わたしは今しばし

世界にチューニングを合わせるのをやめて

ひとりになりたい。

 

あばらを閉じていくように

心の窓をひとつずつ、閉めていく。

 

息を漏らさないように、ぴったりと心のひだを締めて

薄暗い部屋に、そっと腰をおろし

ほっとひと息ついたとき

 

いままでうまく出てこられなかった

たくさんのアイデアが湧いてくることに気づく。

 

 

 

 

 

やる気が出なかったのは

好きなことを好きだと思えなくなっていたのは

心の中に

自分じゃないものがたくさん

紛れ込んでいたからかもしれない。

 

 

 

 

 

心の中で完全にひとりになれたとき

 

わたしはこんなにも

デザインすることが好きだったのだと驚き

ものをつくることに喜びを感じるのだと驚き

ほかには何も考えていないことに驚き

 

感動している。