listen こえびメモ

リスン・デザイン こえびのブログ

日々感じていることをつらつらと書きます。

わかってしまうのは、自分もそうだから

うれしいときも

かなしいときも

心が溢れそうになったら

家の近くの川べりにくる。

 

忙しく動いているのは好きだ。

なにも考えずにすむから。

 

 

さみしさが、わかってしまうのは

わたしも、おなじものを抱えているから

なのかもしれない。

 

抱きしめてあげたい、という気持ちは

きっと

抱きしめてほしい、という気持ちと、

おなじなんだと思う。

 

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だれかに頼ったり、頼られたり。

 

学生さんの手を借りながら

なんとか今週の山場を超えられた。

ほんとうに、感謝しかないです。

ありがとう。

 

 

最近あらためて感じているのは、

ひとりで抱え込む以外に、いろんな方法があるんだなってこと。

反射的に、つい「もうちょっと頑張ればやれる」って思ってしまうけど、

その「頑張り」かた、あんまり広がりがないし、豊かじゃないよね。

 

ふつうの生活は、たいせつ。

というか、

むしろ生活こそが、いちばんたいせつ。

わたしはすこし賢くなっています。

 

 

できないときは、できないって、いさぎよく諦めたほうがいいし

困ったときは、だれかに相談したら、解決の糸口が見えるもの。

 

人にお願いするのは、なかなか勇気がいることで、実はすごく苦手なのだけど

ちゃんとヘルプを出せば、みんな意外と、助けてくれる。

 
ひとりでは見られない景色とか

ちょっとしたグルーヴ感が生まれたり

自分の想像を超えてくる感じがする。

 

 

昨日は、友だちが、わたしにヘルプを出してくれた。

残念ながら、あまりにもおなじ状況で、今回はお手伝いできなかったけど

声をかけてくれた、その気持ちが嬉しかったな。

 

彼女が、そこで「信頼」ということばを使ってくれてハッとしたのだけど、

人に頼るってことは、その人を信頼してるってことでもあるんだよね!

 

「信頼」って捉えると

人に頼ることも、頼られることも、

すごく価値のあることなのかもしれないと、思えたのでした。

(これはわたし的にスゴイ発見だったのよ。まゆみちゃんありがとう)

 

 

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そうじもたいせつ。

(長らくサボっててごめんなさい)

是枝監督がずっと描いているもの

 

万引き家族

 

じーんわり、余韻の残る作品。

だれかと、話したくなる。

 

是枝監督の作品には、

とても、やさしい余白があると思う。

観た人の心の中で、完成する余白。

いろんな解釈が、ゆるされる余白。

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どんなに、正しくないことだとして

その何かをよりどころにして、

必死で生きている人を、

だれが裁くことができるだろう。

  

わたしたちの目に見えているものは、

いつだって、

ものごとの、ほんの、一部分だけ。

なのに、すべてを分かった気になってしまうのは、なぜだろう。

 

想像したい。

いま、見えているものの、裏側にあるものを。

いまこの瞬間、この世界のどこかで、さみしい想いをしている誰かのことや

わかった気でいるかもしれない、大切な人のことも。

 

ときどき、メメント・モリ

ペパーランドの能勢慶子さんに、すてきなきっかけをいただき

はじめて、グループ展に参加させていただくことになりました。

明後日、7日からです。

 

「ときどき、メメント・モリ

(タイトルがまず素敵)

@SYNERGY 73岡山市北区神町2-1)

6 / 7 - 6 / 25

14:00〜25:00(ワンドリンクのオーダーをお願いします)

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去年あたりから、なにか、変化を迎えているような感覚があったのだけど、

デザインを志す以前の、もっと純粋な、表現したいっていう気持ちに

ちょっとずつ、素直になってきたようです。

絵を描くのって楽しいな!と、思う瞬間が増えてきたんです。

 

 

とはいえ、

日々のデザイン業務に忙殺されていると

いつも、誰かの声にチューニングを合わせている感じで

いざ、純粋になにかを作ろうとした時

自分の声が、なかなか聞こえなくて、ちょっと驚きました。

自分で自分の描きたいものが、よく、わからない。

 

 

そういえば、20代のころは

泣くほど悔しいとか、跳びあがるほど嬉しいとか、

鮮やかな感情がたくさんあったような気がします。

 

 

社会に出てから、現実的なあれこれと、自分なりに折り合いをつけてきた結果

うまく感情をひっこめることを覚えて、人とぶつかることも少なくなり。

それを、物分かりがよくなったとか

まるくなったとか、言うのかもしれません。

(それはそれで、大切なことだしね)

 

 

では、自分自身はいったいどこへ?

そのことを教えてくれたのは、自分の夢の世界でした。

 

時たま、ものすごく、美しい夢を見るのです。

これはナルコレプシーという疾患を患っていることと関係があるのだけど

このときばかりは、それにすら感謝したくなるくらい。。

 

あまりにも、海とか、水とか、洪水とか、

そういう夢が多いので、調べてみたところ

ユング的解釈では「無意識」「感情」「母」「再生」の象徴なのだそう。

そのときの心理状態をを正確に言い表していることが多くて。

けっこう、おもしろいんですよね。夢って。

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ということで、今回わたしが挑戦してみるのは、夢というモチーフ。

ほんとうに、ほんとうに久しぶりに、

キャンバスに向き合って、

絵を描くことを楽しみました。

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よかったらお越しいただけたらうれしいです^^

 

「ときどき、メメント・モリ

@SYNERGY 73

6 / 7 - 6 / 25

14:00〜25:00(ワンドリンクのオーダーをお願いします)

 

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

あたたかな温度

 

なんて表現していいのかわからないのだけど

なにか落ち着くな、親しみを感じるなって思う人がいる。

なにが好きなのかなぁと考えたら

やはりよくわからなくて

強いて言うなら、

やわらかな空気とか、

あったかい温度のようなものなのかなぁと思う。

 

それはもうこんな例えですごく申し訳ないけど

うちの実家にいる柴犬のハナと久しぶりに会った時に

目と目をあわせて鼻をくっつけてフンフンやって、

通じ合えたなぁと顔がほころぶような感じに似てる。

 

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ハナはクールだから滅多に表情には出さないけど

毛をわしわししてやると、時たま、尻尾がプルルっと動いて

瞳がとてもきれいで

目を見ると、わたしへの親しみの気持ちがわかるのよ。

かーーわいいーーのよーー^^

 

 そんなふうに

あまり、人を信じていないわたしの

心がすこし、開いているかんじがする。

いつも通り、なにひとつ、うまく話せてなくても

そのひとが存在している、そこの空気をあたためている、体温のようなものが

自分をとても、安心させているような気がする。

  

そう、

思い出すと、顔が、ほころぶ感じなんだよ。

そんな例えは、おかしいかな。

 

 

5月になると彼女は

 

っていう、ステキな歌があるのですけど

その感じが、とても、ふさわしい気分。

(あ、もう、6月だけど。)

 

5月になってから

新芽が顔をだすように

何かあたらしいものが、内側から湧いてくる感じがする。

 

今まで積み上げてきたもの、ぜんぶ、越えていくくらいの軽やかさで、

あたらしい世界に、飛び出してみたい。

例えるなら、そんな感じ。

 

すこしの洋服と、本と、絵の具と、自転車。

必要なものは、ほんの少し。

守らなきゃいけないものは、まだ、何も持ってない。

それにまだ、ちっとも本気で闘ってない。

 

ずっと、居場所を探していたような気がする。

自分の中に、こんな気持ちがあるなんて、知らなかった。

こんなに自由だなんて、知らなかった。

 

 

  

「5月になると彼女は

うすい膜をやぶって出てくる

淡い空をゆっくり翔ぶ

白い羽根の大きな蝶になる

5月になると彼女は蝶になる」

 

久しぶりにひっぱりだした昔のiPhoneが、チョイスしてくれた。

曽我部さんは、乙女心がわかってるよね!

もうすっかり、初夏なんだね。

 

だいすきな季節が、やってくる。

 

 

0525今日のダーリン

 

 >必ず、それを言われたくない人は存在する。

>そうやって考えていると、終いにはなにも書けなくなる。

そう。

さまざまな意見が出てくることは

それだけ影響を及ぼしているということでもある。

 

だからこそ、覚悟が必要。

誰かを傷つける可能性を、考えて、心を痛めても

それでも発信したいという、強い気持ちが必要。

 

 

 

・いつごろからか、「とんかつ」のことをよく書いている。
 「とんかつ」はおいしいだとか、
 どこそこで「とんかつ」を食べただとか、
 年をとってきたら「とんかつ」が好きになっただとかね。
 「とんかつ」のことを書いているぶんには、
 特に迷惑をかけることもなく平和なものだろうと、
 あんまり気兼ねなく書いてきてはいる。

 しかし、あらゆる角度から検討したりすると、
 「とんかつ」のことを書いているだけだとしても、
 だれかの神経を逆なでするという可能性はある。

 いま血糖値が高いなどの理由で
 カロリー制限している人が読んでいたら、
 せっかく我慢しているのに人の気も知らないで、と、
 おもしろくないと言われることもありうる。
 肉食を強く否定している人だったら、
 問答無用で拒否する、という可能性もあるだろう。 
 豚を食べることを禁止している宗教もある。
 その立場から、ぼくが「とんかつ」を食べたという文章を
 咎めるようなことはないとは思うけれど、
 書き方しだいでは、傷つく可能性はあるのではないか。
 「とんかつ」を食べたいけれど、お金がない。
 そういう状況にある人から見たら、
 あちこち出向いてはうまいうまいと浮かれているのが、
 おもしろくないと思っているかもしれない。 

 人にはさまざまな立ち位置があって、
 さまざまな感じ方と考え方がある。
 絶対にだれもが不快にならないことはありえない。
 「平和であれ!」だって、反発されることはあり得る。
 「とんかつ」みたいなものについてだって、
 配慮しすぎたらのびのびと文章なんて書けなくなる。
 「晴れてうれしい」であろうが「雨が好き」であろうが、
 必ず、それを言われたくない人は存在する。
 そうやって考えていると、終いにはなにも書けなくなる。

 <知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。>
 あの文豪だって、そう書いているくらいだからね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
のびのびと生きている人は、それだけのことをしてるよね。