糸井さんのこういうバランス感覚がほんとうに好き。
ブランディング、とか、人脈、とか
本質が伴わないものほど滑稽なことはないだろう
じゃあどのあたりが損得勘定50%なのかって
考えるヒントはきっと
「より素直で」「より豊かで」「より広がる」
そのあたりの感覚なんじゃないかなと思ってる
見てくれや器用さで取り繕えるようなものなんてくそくらえ
若い人たちにはそのことを声を大にして伝えたい
今世の中にのさばってる声の大きいもの、
やたら視界に入ってくるもの、そんなの本質じゃない
誰かみたいに、キレイにうまいことやろうなんて考えないで
たましいはもっと素直なところに宿っている
短いスパンじゃなく、長い目でゆっくりと。
(若い頃はそれができないから、恐怖や不安を感じやすいのだけど)
そう、最後はかならず
嘘のないものだけが、残るんだぜ
・師走に、ぼくは、こんなふうなことを書いた。
<損得を考えることが、
人生の50%を超えたらダメだよね>と。
果たして、じぶんはどうだろうかと、
あんまり考えることもあえてしないで、そう書いた。
いまのじぶんが、どうであろうが、
「損得を考えることが、人生の50%を超えたらだめ」
なのではないかと思って、率直に書いてしまった。
たとえば、こんなことはないだろうか。
あなたが「いちごあんみつ」が好きな
フリーのイラストレーターだとする。
ひとりでそれを食べたら、ただおいしいだけである。
損得とはなんの関係もない。
しかし、お得意先の人と相談をしながら、
「いちごあんみつ」を食べることになったとする。
むろん、おいしい。
そして、お得意先の人も大いによろこんだ。
そうなると、「交際費」として節税になるのではないか、
仕事上の関係もうまくいくかもしれないし。
と、なだらかに「損得」のことが考えられるようになる。
つまり、ひとりで「いちごあんみつ」を食べていたら、
それはあなたという「個人」の生きる営みだった。
そして、交際費で「得をする」と考えたところは、
「経済人」としてのあなたの活動だとも言える。
いいのわるいの言ってるわけじゃなくて、
この「損得」の勘定が、ビジネスの場面では
100%であることが正しいとされてきた。
だから、ちょっと目先の利く学生とかが、
知人関係などをも得をする「人脈」と呼んだりするし、
個人のブランド化というようなことに熱心になる。
そういうこと、あってもいいと思うよ、思うさ。
だけど、やっぱり主体(たましいのある場所)は、
50%以上は「ただのわたし」でありたいよなぁ、と。
効率、生産性、利益…などの損得についての考えが、
じぶんの50%を超えてしまったら、
あとで後悔するような気がするんだよね。
もちろん、いまの世の中で損得の要素が20%とかでは、
生きることが困難になっちゃうんだろうけどねー。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
企業も、損得100%の考えは否定されつつあるんだよね。