まだまだ、ひと月も経ってないので
わからないことも多いけど、
今のわたしが思う、東京という場所の記録。
人との距離感について、感じることは
ドライで冷たいという表現もできるし
無遠慮に踏み込んでこない優しさ、
という表現もできる。
干渉されるのが苦手なわたしにとっては
とても自由だし、やさしい場所だと感じる
ぱっと見はツンとしていても、求めていけば、優しく笑顔を向けてくれる人も、助けてくれる人もいる。
そんな印象。
あと、標準語。
東京のひとの喋り方を
はじめ、オカマみたいでキモイ~と感じた記憶があるんだけど笑(ごめんなさい)
いまは、優しくてくせのない言葉だと感じるようになった。
毒っ気をきれいにアク抜きしたような感じというか
マルヤマさんが「フラット」と表現していたのが腑に落ちる
無味無臭で、さらさら流れていくかんじ?
生粋の東京の人、ってひとはごく少ないから
イントネーションで、なんとなく出身はわかるし
ほんのりペールトーンでのカラフルさはあるので
それで十分、察することができるってかんじ
それを表面には出さないのは、
単純に、そこでのカラフルさが不必要だということ
いろんな方言が飛び交ってたらコミュニケーションがとれないし
お互い意思疎通をスムーズにするための共通認識を持っていて
みんなで歩調を合わせている感じかな?
そうやって、先入観がなくなってきたからか
わたしも自然とそのさらさらした言葉に馴染んできた気がする。
あと、デザイン。
たとえば、自然の豊かさでいえば
わたしが育った岡山の街のほうがはるかに、豊かなのだけど
ただ、その、限られた材料を
たとえば、ここに生えている一本の樹をどのように見せればもっとも美しく印象的か
というようなことが、とても綿密に計算されている
その違いはとても大きくて
目にする広告も、看板も、街並みも、情報量が多いわりにストレスが少ないのは
こちらに届くまでの道すじがとても、きれいにデザインされているから。
然るべき場所に、しかるべきものがあるという感じで
なぜこれがここに?みたいなものは、あんまりない。
(でも、チンドン屋みたいな岡山駅前のイルミネーション、そういうのもなんだか愛らしくて、好きなんだけど笑)
ビル街の片隅にある植樹も
多摩川の土手をきれいに覆っている芝生も
ものすご~く、人工的
ものすご~く、人の都合でできてる
だけど、だからこそ、居心地がよくて。
まんまと、群れの中のアリンコのごとく
おおきな市場の流れに、
気持ちよく乗せられているわけです。
でも、そこに不愉快さがないのだから
それはそれで、また、一興かな。
いまのところ、そんな感じ。
つまり、けっこう、居心地がよいし、
好きになりそうという感じです。
続く。