「10月10日は、燃えるゴミを出してはいけません。」
というような文章は、なにも思ってなくても書ける。
「ドアを開けるには、ノブを左に回して手前に引く。」
というようなことも、なに思うこともなく書ける。
「息子がうつむきながら黙って帰ってきた。
妻が、脱ぎ捨てた靴を揃えていた。」
と書いた文章には、なにかの思いが入っている。
「街は夜だった。」という文の場合、
その前後につながっている文しだいでは、
思いが入っているとも言えるし、
そうでないとも言えるが、
「街は夜だった。」と、わざわざ言っているのは、
おそらく、なにかの思いがあるのだろうと感じとれる。
「3月31日の期限までに、お支払いください。」
は、思いが入ってない表現なのではあるが、
ほんとうはなにかの思いがある、ということもある。
その日までに、ほんとうに払ってくれないと困る、
という思いが入っているかもしれないし、
これまでの経緯を知っている人が書いたものなら、
「こいつ、ほんとに払うつもりがあるのだろうか?」
という疑いも含まれているかもしれないけれど、
そこまで読みとらせないように表現されている。
「3月31日の期限までに、お支払いをお願いします!」
という書き方になると、それは、思いが漏れ出している。
ぼくが、毎日のように書いている文章のほとんどは、
なにかの思いが言わせているものだ。
いや、そういうふうにありたいと思って書いている。
いままで生きてきて、たくさん思ってきた。
いっぱい思ったことが積み重なったり邪魔しあったり、
複雑に化学変化したりをくりかえして、
いまのじぶんの思いになっている。
そういうことが、すべてじぶんのこころのなかにある。
荒れていても、肥沃でも、貧相でも、じぶんの土地だ。
そこからしか、ことばは育つわけがないのだ。
じぶんのこころでない場所から借りてきたことばは、
美しく見えようが、かっこよく見えようが、だめだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
たくさんの思いの「器」であるじぶんが、問われてるよね。