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リスン・デザイン こえびのブログ

日々感じていることをつらつらと書きます。

猫のような魚を捕まえる夢

こんな夢をみた

 

友だちといっしょに

鬱蒼と茂った、山のなかに入る

 

山の、独特の圧迫感と、

濃くなっていく影、

 

「やっぱりわたしは、山よりも、海派だな」

友だちとおしゃべりをする

ざあっと、目の前に、懐かしい瀬戸内海がひろがる

白くて静かな海、思い出すように目を細め

 

ふっとふりかえると、

先程の山あいに戻っている

いつのまにか湖のほとりにいて

水の中は、おそろしく透明なエメラルドグリーン

いつか見た山口県の別府弁財天のような

 

 

その水の中で、たくさんの猫が泳いでいる

鯉のように密集して、スイスイとお互いをよけながら

 

猫の首から下は

ウミヘビのような一本足で

人魚のように足をくねらせ、器用に泳いでいる

そう

いますでに、湖面を見つめる視点にはなく

水族館の魚を見つめるのとおなじアングルで

じいっと観察しているわたし

 

色柄さまざまの猫たちは、

艶めかしく身体をくねらせて、すれちがう

深いエメラルドグリーンと、水面から差すやわらかな光を纏い、キラキラとした気泡がうまれる

息を飲むような美しさだ。

 

 

ふしぎと気持ち悪いとはあまり感じず

「そっか、野生のヤマネコってこんなかんじなんだ」

「はじめてみたー」

と、夢の中のわたしは妙に納得して感動している

 

 

友だちは猫のような魚を捕まえようとする

バシャバシャと身体をくねらせ、噛み付こうとする猫

びちっと、ヘビのように腕に巻きついている

 

 

わたしは、ちいさく悲鳴をあげながら

その様子を見ている

水族館でサメを見つめるように笑って

ガラス越しでもないのに

 

 

頭の片隅では

ほんのり、恐怖を感じているが

それはまだまだ、ぼんやりと遠い

 

 

 

猫たちはこちらを見ている

まるで魚のように無表情に

 

やめてよ、こっちに来ないでよーー

と、思いながら

笑っているわたし

 

 

 

あん

 

いつ観たんだろ、ずいぶん前のような気がする。

玉島文化ホールで、たくさんのお年寄りといっしょに観たのがよかったな。

(ちくちゃん誘ってくれて、ありがとう)

 


演技ではなく

在り方、のような。

 

俳優というよりも、その人自身

その人自身が積み重ねてきた、

存在の確かさで

 

空間が支配される。

 

 

 

満開の桜と、真っ白なひかり

画面いっぱいにひろがる ほんものの春の景色

 

彼らのからだを通して、

息を吹き込まれた

それは

わたしたちが暮らしているこの世界そのもの

 

 

youtu.be

 

すこしの登場人物と

 

ほんものの

春と、夏と、秋と、冬と、

 

限りなくシンプル、なのに

あんこが端までたっぷり入っているみたいに

ひとつひとつの瞬間に、ずっしりとした質量がある

 

演出して作り上げるのではなく

あたりまえに存在している自然な感覚を

ていねいに掬いあげているから

だろうか

 

 

 

河瀬直美監督の創り出すものは

「映画」じゃなくて「作品」と呼びたくなる

その違いってなんなんだろう

 

端から端まで監督の血が通っている、

そういう純度の高さだろうか

 

 

原作は、ドリアン助川さんなのだそうだ。

 

どんなに暗い場所にいても

ひかりを求めて、どこまでも

ただ生きていくために

腕を伸ばしていく

 

しなやかに、力強く。

 

 

 

ちょっと疲れてる日

 

どんなになだめすかしても

疲れがぐったりと、とれない

年末くらいからずっと

もう働きたくないよーと、心の中のわたしが申しております。

 

これといった原因があるわけでもなく

どの仕事も、やることを決めたのは自分だし

 

それでもやっぱり

わたしは、疲れております。

 

 

これからのこと、ちゃんと整えていきたいのに

ぜんぜん自分の時間とれない

忙しいなんて甘えかもしれないけど

そんな器用にできない

ほんとに一ヵ月後に移動できるの?こんな状態で?

 

 

美味しいものを食べても

友だちに会っても

お風呂につかっても

8時間寝ても

やらなきゃいけないことが頭から離れないなら、意味ない

 

 

頭をからっぽにしたい

まっくらな場所で死んだように眠りたい

川べりで完全にひとりになりたい

 

 

ごめんよわたし

もうすこしがんばれ

来週には楽にしてあげるから。

そしてもうこれ以上、仕事入れない。約束する

 

 

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っていうブログを更新した瞬間に

友だちから励ましのメッセージが来て

ぽろぽろ涙がでてきて

うっかり号泣してしまって

そしたらまた頑張れそうな気がしてきた

 

ありがとう。 

 

 

さいごの授業

 

わたしが(恐れ多くも)専門学校の非常勤講師というお仕事をさせていただくようになって、はや、3年。

毎週数時間を、ひとまわり下の学生さんたちと過ごすことになった。

振り返ってみれば短いひとときだったけど、とても貴重な時間だったな〜。

みんなほんとうに、ありがとう。

 

https://www.instagram.com/p/BtP_XU3n9qE/

 

はじめは、自分が苦労して身につけてきたものを教えることが、すごく恐かったのを思い出す。

きっと、どこか自信がなかったんだよね、わたしも。

 

だけど、いつしか、

自分の知ってることぜんぶ、余すところなく伝えたい!!

そんな気持ちにさせられた。

みんなの目があんまりにもまっすぐで綺麗だから

本気で応えなきゃ、って、思ったんだよ。

 

 

ちなみにこれは「食パン」をテーマに、チームごとに自由に企画編集して特集を作ってもらったときのもの 

おいしい食パン屋さんに取材するとか、いろんな食パンを食べ比べるとか、いろんな切り口があったと思うけど、まさか2チームとも「作る」ほうにいくとは。やっぱり、クリエイティブ。

 

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このチームは、ディズニーのキャラクターをそれぞれ食パンで再現してくれました。

ぜんぶ自分たちで考えたオリジナルレシピ。家から材料やトースターを持ち寄って、楽しそうでした。

撮影小物もそれぞれのキャラクターにあわせて、工夫しているんだよね〜

 

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このチームは、曜日別のファッションコーディネートと絡めて。

popteenとかのティーン誌に特集されてるイメージなのだそう、

モデルはチームメンバーのなっちゃん。スタイリングも凝ってるね、楽しそ〜

食パンくわえてイケメンとぶつかるなんて設定が古風だね笑



 

若いひとたちの素直な感性に触れていると

自分が与えられるものなんてほんとうにちっぽけで

むしろ、

与えられるもののほうが多いんだってことがよく分かる。

教えることと、教わること、ほんとはとても似ているのかもしれないね。

 

 

 

そんな大好きだった授業も、これで最後。

ちゃんと自己PRできるツールを作ってほしくて

最後の課題は「自分」をテーマにZINE(個人で作るちいさな読み物)をつくることにした。

まず、自分自身を深く掘り下げるところから始めてもらって、

着地点はごくライトなものになるだろうけれども

それでもなにか、考えるきっかけになればいいかなって、テーマを決めたのだった。

 

 

 

そしたら、上がってきた作品には

ちょっと受け取るのにパワーが必要だってくらい、彼女たちのほんとうの想いがめいっぱい表現されてて

先生は家に帰ってこっそり泣きましたT T

 

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きれいになんてまとまらない、

自分が好きなものについての、ページに収まりきらないくらいの情熱とか

世界に対しての、子どもみたいに純粋な問いかけ、

過去の、きらいな自分を受け入れること、未来への潔い宣言であったり

 本気で向き合った人にしかできない、自分というものが世界になにを残せるか、っていう自問自答の跡。

  

きっと、年齢を重ねるたびに

この鮮やかさは遠ざかっていくはずで

だからこそ、ものすごく、価値があって

 

 おとなになって見返してみたら、

当時の自分をまぶしく、誇らしく思い出すだろう、

そんなものを見せてもらえて、わたしはほんとうに幸運でした。

 

 

そして

わたしはずっと、デザインを教えているつもりでいたけど
ほんとは、デザインの完成度なんて、二の次でいいのかもしれない。

 

なんて、それはそれで誤解を与えてしまいそうだけど笑

社会に出て場数をこなせば、デザインなんて、誰でも上手になれるんだもの。

 

それよりも、

もっと内面的な、考えを深めていく方法とか、

自分自身の感覚に向き合うこととか、

そんな自由な実験が、たくさんできる場所でありますように。

デザインってほんとうに、楽しいって、何度も思えますように。

 

これから先、また再会できたときには、

おなじクリエイターとして、美味しいお酒でも飲みましょう。

 

 

 

そして、わたしがなんとか「こえびす先生」として存在していられたのは

尊敬する大好きな宮脇先生の強力なバックアップと、

常勤の先生がたの親身で優しいご指導があったからこそだと思っています。

ほんとうにありがとうございました。

 

わたしは新しく見つけた自分の道を、みんなに負けないくらいのフレッシュさで、歩いていきます。

そんなこともいつか、学生さんたちにシェアできたら、いいな。

 

これからも、よろしくお願いします。

愛を込めて。

 

 

 

現実におしりを叩かれる

 

こないだ独立したばかりのデザイナーの女の子が言ってた

「自分の名刺がぜんぜん、作れないんです> <」

 

!!

わかりみが、すごいよ!

わたしも、独立してしばらくは、デザイナーのくせに手描きの名刺を持ち歩いてたくらいなので、ほんとうに、超、わかる。

中途半端なもの見せるくらいならなにも見せたくない感だよね。笑

自分のためって、いちばん、難しい〜。

 

 

(ってのはなんの言い訳にもなんないけど)

だから

自分の仕事をまとめるという仕事が、

いちばん億劫で、めんどくさい〜。

 

だって自分の中ではもう終わったことだし、

納得のいく形で丁寧にまとめたいし、

ちゃんと準備できたら、やるよもちろん!

と、あとまわしにし続けて、はや数年。。。

(自分のホームページの話です。ホームページを見ましたと言われるとすごく申し訳ない気持ちでいっぱいになる) 

 

 

 

「こえびちゃん、自分のホームページちゃんと作ってる?」

「夢に向かう一歩目は、とても地味なものだからさ

 地味なことを、こつこつ、やるしかないんだよ」

 

去年の春、

大切なひとから、とても真摯で実直なアドバイスをもらって

ほんとうに、ぐさっときたのです。それは、ほんとう。

 

それでようやく、重い腰が上がり始めてるところ、なんだけど

別にそんなんなくても、お仕事いただいてるしなぁ

っていう気持ちが、なかなか払拭できないまま半年以上。。 

 

どうしよっかなぁ、もうすぐ春になっちゃうなぁ。。

そんな風に焦っていた矢先

まわりからの風に煽られるかたちで

いよいよ、向き合わざるを得なくなってきた、今日この頃。

 

 

 

先日名刺交換した東京出身のデザイナーさんが、

スタイリッシュに、その翌日に、実績のメールをくださったのだ。

やばいよ、やっぱり、このスピード感だよ。

 

来週には、大きな会社に打ち合わせにいくことになっていて

事前に実績を確認させてくださいとのお達しもいただいている。

ですよね、すぐ送ります。

(ってか、いま、まとめてます、早急に)

 

 

 

ほんとうに、不思議なくらい

やるべきことのタイミングって、完璧だなぁと思う。

 

「今あなたがやるべきことは、これですよ」って

ひとつずつ、

宿題を出してもらっているような気持ち。

「やっとですか」って声が、聞こえるようだ。

 

 

いつもいろいろと気を回してくれて、

ありがとうね。

がんばるから、見ていてね。

 

 

 

 

デザイナーの、世界に対する愛の表現

 

コクヨデザインアワード2018の審査会の感想

(ちょっと今日は、めんどくさい感じになっちゃったことを前置き)

www.kokuyo.co.jp

 

ここ数年の受賞作を眺めていると

あきらかに趣向が変化してきている気がする。

「機能性」と「情緒」のはざま。

シンプルに、審査員の哲学が素直に表れているってことなのかもしれないけど

デザインという行為の概念が、より幅広い思想を含んだものへ変わりつつあるんだなと、改めて感じる。

 

ひと昔前は、「デザインとは問題解決における手段だ」なんてガチガチに言われていたし、

わたしもそう思い込んでいたけど

もはや、そんな狭っ苦しい定義を超えて、

もっと豊かなものを生み出すための、ひとつの思想というか、哲学というか、

そういうふうに広がってきているんだなって、実感した。

 

 

ただ単に、文房具をデザインする、じゃなくて

(勝手な主観だけど、少し前なら「スマートなダブルクリップ」がグランプリだった気がするな、とか

 このアイデアもシンプルで美しくて素晴らしかった。商品化したらぜったいヒットするだろう)

その文房具をとりまく、感情や、行為や、ストーリーをデザインする。

その膨らみの豊かさのほうに、期待値がある。

世の中全体がそういう方向性に向かいつつあることを考えると、ごく自然な流れだ。

主催のコクヨが、商品化とか、ヒット、いうベクトルだけに支配されていないことも

この自由なアイデアが生まれる礎なんだと思う。

 

海外からやってきた作品たちの、文化的なバックグラウンドの違うデザイン

言語の違うプレゼンテーションを見られたのもすごく興味深かったし

ライブで行われる講評が、どういった方向性を描いていくのかも、

プレゼンテーションでグッと印象が上がる作品があったり、逆にパワーダウンしたり

コンペという手法をどこまで理解しているかによって、勝敗が分かれるものなんだな、とか

いかに自分が甘っちょろい感覚でアイデアに向き合っていたのかと

とにかく勉強になった> <

 

 

最終作品のプレゼンテーションについては

終始、ワクワクが止まらなかった。

好きなアイデアはたっくさんあったのだけど

きりがなさそうなので、割愛。。

 

ひとつ挙げるとすれば

山崎タクマさんの作品「音色鉛筆で描く世界」が提起しているものが

とてもあたらしくて、やさしくて、豊かで。

ご本人から直接お話を伺うことができたのだけど

ほんとうに純粋な動機を、まっすぐに突き詰めてきたという

そういう誠実さがビリビリと伝わってくるようで、感動してしまった。

 

compe.japandesign.ne.jp

 

なにかの企画やアイデアを考えるときに、

自分の手の届く範囲から生まれた、リアルな感覚から軸をぶらさないということは、たいせつなんだなと思う。

 

たとえばこのアイデアが、

「福祉」というスタートラインを切っていたら、ぜんぜん違ったものになったかもしれない。

彼の日常のなかでふっとひっかかった「鉛筆が紙の上をすべるときの音」をとっかかりに

音という感覚の意味を問い直し、視覚障害の方へと可能性を広げつつも、

始点となったアイデアを突き詰め続けて、核の部分をぶらさなかった、そのバランス感覚。

すごいのは、はじめの好奇心と情熱を最後まで貫いて昇華させたこと!

イデアに気づくだけなら、誰だってできるんだもの。

そして、実際に、目の見えない人との対話を通じて、最終的なデザインへと落とし込んだことも、プロダクトとしての説得力につながっているのだと思う。

 

佐藤オオキさんが、さいごに

審査員をしていてよかったと思わせてくれる

数すくない瞬間だったと、おっしゃっていて

わたしはその意味がすごく、わかる気がした。

自由な発想、あたらしい提案、今までどこにもなかった価値観。その瞬間を目撃できることの醍醐味。

 

 

 

だれかに頼まれたからじゃない

特定のだれかのためでもない

どこかにいるはずの、

自分を含めた、世界のため

 

その俯瞰した目線

自分というフィルターを通して見た、

自分を含めた、世界に向けて、考え続ける。

 

 

その純粋さを思ったとき

デザインという行為の、本質的な、うつくしさを見た気がしたのだ。

 

 

世界をすこしだけ、たのしくする

日常をすこしだけ、使いやすくする

 

 

それって、とてもデザイナーらしい愛の表現だな。って。

 

今日のダーリンより(190123)

 

 

仕事がうまくいかなくて、凹んでたときだったかな。

 

父が言ってくれたことがある。

お前はなにもできなくても、

笑ってそこに居るだけでいいのだ、と

 

そのときは、お飾りじゃあるまいし、

何も期待されていないみたいで不本意に思ったものだけど

 

たしかに、

笑っているって、たいしたことだよ。

 

 

それをまっすぐうけとってくれる人がいるなら

ずっと笑っていられたらいいね。

実が綻ぶみたいに、心からはじけるように

カラカラといい音がするような

 

そんなふうに、いつも上機嫌でいられたらいいね。

 

 

 

・近くに年寄りがいたせいで、幼いころに耳にしていた。
 祖母たちは、栗のイガイガのある部分が割れて、
 内側の実が見えるようになった状態を、
 「えんでいる」と言っていた。
 他に聞いたことのないことばなので、こどもごころに、
 それは昔の人たちの使う妙な方言だと感じていたが、
 ずっと大人になってから、
 「笑む」という漢字が当てられるのだと知った。
 花の蕾が開くことも「咲く」というけれど、
 漢字の源まで遡ると「咲」と「笑」は同じものだった。

 なにか、内側にあるものが、有り余って、
 小さな爆発を起こして殻を破ってしまう。
 ぼくは、そういうことを表していると感じた。
 「ぽっ」という音が聞こえるような、微かな破裂も、
 それはそれで、内に「そのままでいられない」ものが、
 機会をうかがって存在していたということである。

 「笑」が爆発の表れだと感じてから、
 ぼくは「笑い」というものを、また好きになった。
 内にあるもののいたたまれなさによって、殻が割れる。
 そう、見えないほどの微笑みさえも、割れなのである。

 ぼくは犬好きなので、犬が笑うということをよく言う。
 しかし、犬の笑みには、破れや割れはない。
 人間だけが、内側からのこころの圧によって、
 唇を割って笑うのだ。

 最近、赤ん坊を見る機会が多いものだから、
 生まれて間もない人が笑うようすをよく見る。
 こころになにが有ってのことなのかはわからないが、
 彼女は、ほんとうによく笑うのである。
 笑うことによって、人を惹き付けるという意味では、
 泣いて叫ぶこと以上に、その効果は高い。
 赤ん坊の笑むのを見て、大人たちが笑むことになる。
 ことばのひとつも知ってはいない人間が、
 笑うということだけで、ずいぶんの大仕事をしている。
 赤ん坊よ、そのままでいいぞ、大人になっても笑え。
 笑むことを止めるな、笑んであなたのこころを見せろ。
 そう願いながら、ぼくも笑みたくて、彼女を見ている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
『また もりへ』という絵本、すばらしい笑いの本でした。