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リスン・デザイン こえびのブログ

日々感じていることをつらつらと書きます。

悲しみとは

悲しいとは、どういうことだろうか。悲しみとは。
失われてしまったものへの愛と、なつかしさ。
もう手に入らないものへの、むなしさと、あきらめ。
 
さびしいと思うことはあっても、悲しいと思ったことはあまりなかった。
悲しさを紐解いてみる。
悲しさの多くを占めているのは、もうここにはなくなってしまった何かへの、愛おしさかもしれないな。
そう、わたし、とても、好きだったんだ。だから、つらい。
 
そのときのキラキラとした時間や、うれしい気持ち、そのときに感じたこと、目にしたもののすべてが、とても好きだった。とても愛していたんだ。

とても好きだったということは、ずっと変わらない。本当のこと。
わたしの大切なひきだしにそっと仕舞っておけばよいのだ。
抱きしめて生きていけば良いのだと思った。



そう思うと、すこし、不安がなくなった。




感情は、ひとりで感じきってしまえば、ちゃんと昇華するものなんだって知ったことが、20代後半に手に入れた最大の学びかもしれない。
友だちが教えてくれた、だれにも迷惑をかけずに、気持ちを落ち着けることができる方法。
それに救われてる。
 
そしてたぶん、わたしが感じているよりも大きな悲しみを、抱えているのは。
こんなふうにわんわん泣けないひとは、どうやってこの悲しさと向き合うのだろう。
どうやって向き合おうとしているのだろう。
不器用なやりかたで、たくさんの愛を与えてくれた、寡黙な背中は。
最後まで、男らしく、少々格好よすぎやしないかという格好よさで、わたしの選んだ方向を、応援してくれた。
本心はわからない。
でも、その姿勢をくずさないでいてくれたことが、わたしを、心底、安心させてくれた。
いつだって、そうだった。それが、彼の優しさなんだろう。
ほんとうに、いい男だと思う。ほんとうに、感謝してる。




わたしは、信じている。
何をって、上手く言えないけど、
とにかく、これが、正解だったということを。



わたしたちが、これまで築いてきた信頼関係を。

かたちを変えてこれからも存在しつづけていく、お互いへの愛を。
ずっと大切に思っている。



この選択が、この先向かっていく、しあわせな未来へ向けての第一歩になる。

わたしは信じている。

わたしも彼も、ぜったいに大丈夫だと、信じている。

 

あのとき、そうしてよかったねって、
すべて正解だったねって、
笑って言い合える日が来ること。わたしはそれを信じてる。

170601今日のダーリン

許す。許さない。許されるのか。
そうね、いま、わたしの頭のなかにもその言葉がある。
そして、かなしみ。しばらく感じることのなかった、悲しみという感情。

 

あることばを、ひんぱんに見かけるということは、
 そのことばの意味するものごとが、
 とても意識されているということだ。

 いま空気が汚れている国や地域では、きっと、
 きれいな空気、空気をとりもどせなどというふうに、
 空気ということばがたくさん使われていることだろう。
 日本でも「スモッグ」が問題になっていたときには
 もっと「空気」ということばが使われていたと思える。
 愛とか、絆とか、友情とか、常識とか、
 「それが足りないのではないか」と意識されることで、
 人びとの口の端に上りやすくなる。
 
 ことばというのは、
 そのことばの意味そのものを生きている場面では、
 意識されていないものだ。
 青春まっさかりの人たちは、青春とか言わない。
 それを言っているとしたら、なにやら、
 じぶんのやっていることが青春なのかどうか、
 疑いがあるときなのではないだろうか。
 「ねぇ、愛してる!」「愛してる!」とかも‥‥
 そうねぇ、どうなんだろうね。

 ぼくは、ぜんそくの経験者なものだから、
 「呼吸」というものを意識して過ごす時間があった。
 人はこうして吸うのか、吐くのかと、いちいち、
 意識で身体に命令するようにして呼吸をした。
 ふだん、呼吸なんて考えなくてもできているのに、
 いちいち意識して呼吸するということに、とても疲れた。
 
 世の中に、たくさんの意識されたことばが目立っている。
 ふと、ずいぶんあちこちで見かけるなぁと思ったのが、
 「許す」ということばだった。
 許せない、許す、許した、許せ、許そう‥‥。
 「裁く」ということの、近くにあることばなのだろうか。
 「許す」は、なかなか一筋縄ではいかないことばだ。
 許す許さないの判断は、限りなく主観的なものだから。
 「許さない」を超える方法は、基本的にはありえない。
 「許す」は、無敵のカードみたいなことばなんだよなぁ。
 これが目立って見える時代って、厳しいなと思った。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「許さない」と言われたら、心当たりがなくても怖くない?

結婚はよいものなんだなぁというはなし

昨日は、友人の結婚式でした。

ぱっと外へ出た瞬間の新緑と、差し込んでくる光が美しくて、まぶしくて

あぁ、とても祝福されているふたりだな。と思った。
それは、古風とさえ言ってもいいくらいの、とてもシンプルなお式で、

わたしは、彼女のアーティストとしての才能を思い出しながら、すこし意外に感じました。同時に、そうだよね。その気持ちわかる。と、思いました。

 

若いうちは、目に見える部分のオリジナリティしかわからなかったけども
少しずつ年を重ねていくと、本質的な美しさが、どこに宿るのかというようなことが、分かってくる。

結局、ふつうであることが、いちばん美しい在り方なんだなって、最近よく思うのです。ふつうって、人々が歩んできた長い歴史の中での、最大公約数だもの。
そして、みんなが安心してそこに居られることの大切さだったりとか。そう、ふつうには安心感もある。
それで、あぁ、このふたりはしっかり地に足がついていて、ほんとうにいま、幸せなんだなって、思った^^

帰り道(酔っぱらいすぎて)日向先生に送ってもらったのだけど、

ここでもまた、わたしは「結婚ってたのしいですか?」と尋ねたらしい。(最近、いろんな方にこの質問をしてる自覚アリ)

先生は「楽しい」っていう言葉では表現しなかったけど、

「楽しいとかじゃなくて、もっと、そういうのを越えたもの」と言った。

つまり、「よいもの」だと。

そんな質問をしてしまうことそのものが、不安の表れだなと改めて気づいたのだけど。
今悩んでいることを、いろいろ話したら、

「コエビスさん、もっと、自分を優先してもいいと思うよ」と、言われた。
人のことは、考えてもわからないものだし、責任をとれることでもないし

自分のことを、もっと純粋に考えてもいいのでは?と。

(今日は、また別の、大好きな先輩と話したんだけど、昨日とはすこしまた視点の違うアプローチで、でも、まったく同じメッセージをもらった。背中を押してもらったような気がする)

去年はまるで実感も覚悟もなかったモヤモヤしたものが

だんだん明確に、はっきりと意思を伴って、わたしを引っぱっていってくれてる。
結婚、よいもの、なんだってさ。よかったね。

わたしは、誰かでできている

4月の終わりに、エレファントカシマシのライブを観た。
もうひと月近く経つのに、まだ、そのときの余韻が胸にのこってる。
これでもか!っていうくらい一生懸命で、無骨で男らしくて、でっかくて、
もう、とにかくでっかくて、べらぼうに格好よかったのであった。
 
気づけば、そらで歌える自分がいて、ちょっと背筋を伸ばして
「むむ、自分も格好よく生きなければ!」などと思ったり思わなかったりして
栄養ドリンクのCMのように日々、元気をもらっていたりして

ふと気づく。
 
あれ? わたし、いつのまに、こんなに好きになっていたんだろう??
 
そうだそうだ、半分エレカシでできているような先輩がいて(今も居るけど)
このアルバムを聴きなさいって手渡してくれたんだ。
なつかしいな^^


よくよく辿ってみて、さらに気づく。
そもそも、今わたしがいる環境も。たいせつな人も。だいすきなものも。
ていうか、今まで生きてきた中で、自分だけの力で出会ったものってどれくらいあるんだろう?
雑誌のインタビュー?テレビ?ラジオ?ネット?
いやいや、それだって、発信している「誰か」がいたから、知ることができた。
ていうかそもそも、自分自身が、父と母が作ったものなんだった。おーすごい。
 
わたしは、誰かでできている。
そんなふうに思うと、すごいことのような気がする。
 
誰かがかけてくれたくれた小さな架け橋に
すこしずつあたたかな血が通って、わたしの大切な一部になる。
それはなんて尊くて、愛おしくて、すばらしいことだろう。
たくさんの人にそうしてもらったように
わたしが誰かに小さな架け橋をかけることができたら、それは恩返しになるかしら?

自分が好きなことや、大切にしているもの、
もっと自分の心を開いていったら、どうなるだろう。
うーん、ちょっと、こわいな。勇気がいるな。
でも、そうして何かがつながっていくのは、もしかして、そう悪くないのかも。
そんな風に思い始めている。

ちょっとずつ、自分は世界に対して心を開きはじめている。


www.youtube.com


わたしがいちばん好きな曲。

 

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ドーンとゆけ!!



170411今日のダーリン

わたしは特に新しい環境で働き始めたりもしてないけど。

入社した時も、入学した時も、この季節はだいたい、元気いっぱいではなかった。
みんなきっと、そうだったんだろうな。

みんな新しい就職先げんきでやってるかな。


 四月の、いまごろ。
 新しい環境にある人は、戸惑ったりしやすい。
 新しい場所でなにをしていいのか、
 なにをするべきなのか。
 そうそうわかるものじゃない。あれれれ、である。
 じぶんの力が、どこでどうやって発揮できるのか。
 まったくわからないし、力なんて、あったっけ?
 戸惑ったりもするし、悩みやすくもなる。
 もっと、ずっと、たのしみにしていた四月なのに。
 どきどきわくわくしていたはずなのに。
 たった三日で疲れちゃった、かもしれない。
 いや、たのしいことだって、なくもないかな。
 だけど、わたしはどうなっていくのかな。
 このままでよかったんだろうか。
 夢を見過ぎていたのだろうか。
 もっと、つまらないと覚悟してればよかったのか。

 ‥‥というようなところにいても、
 それでいいのだと思う。
 そんなもんだと思う。
 もし、戸惑ってなくて、
 とても元気でやれている人がいたなら、
 そりゃもう、とても運がいいってことだ。
 
 四月のいまごろは、戸惑いの時間。
 急いでどうにかしようとしなくてもいい。
 小さくてもたのしいことを、
 ひとつでもふたつでも見つけられたらいいんじゃない。
 近所に、おいしいパン屋さんがあったとか、
 通い道ですれちがうかわいい人がいたとか、
 それくらいのことを、見つけただけで大当たりだ。

 うまくても、へたでも、「そこに一所懸命にいる」。
 いることだけが大事だと思っていい。
 「いる」って、どういうことか?
 あえて助言をするならば、「いる」というのはね、
 「耳でよく聞いていること」と、
 「目でよく見ていること」そして
 「足でよく歩いていること」だよ。
 それをちゃんとやっていることが「いる」ということ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あと、むだ吠えしないこと、拾い食いをしないこと(笑)。

春には感情の大波がやってくる。

年度末はプチ地獄だった。

 

春分の日あたりに突然やってきた感情の大波のはなし。

慣れない運転で、西粟倉村から勝央町にいって帰る道中だった。

いちばん忙しいときで、たった1日パソコンに触らないだけで、催促の電話や、メールがどんどん送られてきて軽くパニックに。

(今思うとそんなに大したこともなかったんだろうけど、余裕がないときはそうは思えないよね〜)

元気なときなら、たいていのことは平気なのだけど、確定申告というラスボスにけっこうダメージを食らってたのかも。

 

叫びだしたくなるくらい、気持ちが不安定になった。

なんで皆そんな勝手なのって、怒りと不安と焦りが一気に押し寄せてきた感じ。

からだもこころも疲れていた。

 

今思うと。たぶん、一生懸命、デトックスしようとしていたのだと思う。

理不尽なことがたくさんある。でも、だれにも感情をぶつけられずに、グッとこらえてニコニコしていないといけない、そんな状況を自分なりに労おうとしていたのだろう。

わーわー泣いて、ぐっすり寝たら、すっきりした。

イヤな夢をたくさん見た。でも、夢で最悪の状態を予行演習したら、そんなに怖くなくなった。

 

人間には、自浄能力がある。

女性は特に、そうなのかも。

うん、春だなぁっていうことを感じた1日でした。

 

170328今日のダーリン

近ごろ調子が悪いのか便秘気味と言いますか

じぶんのなにかを表現する元気がないので今日もこんなかんじ。


今日のダーリンって天気予報みたいなのだよね

ももやもやと気になっていることが、糸井さんの視点で整理されて述べられている。

その照らし合わせで、自分の考えていることがちょっと見えてきたり。クリアになったり。


「はずれ」だと思ってたことこそ、わたしのなかでは大切な糧になっているような気がする。
そういうことを、いつか、伝えるべき誰かに伝えられたら。
「勝ち組」「負け組」なんて、ひとつの通過点をそう呼んでいるだけだしね。


・受験だとか、就職だとか、人生のなかで、
 どっちに進むのか、どっちに選ばれるのかについて、
 真剣に考えることは、何度かありますよね。

 こんなふうに落ち着いて言っているぼくは、
 高校の合格発表の前の夜に、どういうわけか、
 近所の人と家族の間のひそひそ声が耳に入って、
 「落ちたのか!」と勝手に決めて、
 布団のなかでひとり泣きしていた経験があります。
 あとで思えば、なんで近所の人が、
 おれの受験の不合格を知らせにくるんだっつーの。
 どんだけか、ばかな15歳だったんですね。
 なんでしょうか、あの「生か死か」みたいな切迫感は。

 ある学校に受かったということと、落ちたということ。
 また別の学校に入れたということ、浪人すること‥‥。
 道は、いくつかに分かれています。
 いくつかに分かれていて、それについて、
 「じぶんはどうなりたい」という希望はあると思います。
 それは、会社に入ることについても同じですよね。
 そういう局面の当事者のときには
 見えなくなることがあります。
 ぼくも、ずっと人生のらせん階段をぐるぐる回ってきて、
 「ああ、そうか」と、いまごろ気づいたことです。
 それは、あっけないくらいの、ただのほんとのことです。
 「はずれくじは、ない」ということ。
 どれにしようか、どっちにしようかというような場合、
 たしかに希望したい「当たり」はあるんです。
 だけど、その「当たり」以外が、
 「はずれ」というわけでもないんだなぁ。
 これ、わりと、見えにくいし、忘れている事実です。
 
 大事な判断というと、すぐに「天国か地獄か」とか、
 「生か死か」「成功か失敗か」「プラスかマイナスか」
 なんて、一方が正解でそれでなければ最悪と
 考えやすいんだけど、それはちがうんですよ。
 「はずれ」だと思ってたものは、「ふつう」です。
 もっとくどくどと言えば、「当たり」だって怪しい。
 「当たり」を引いたおかげで、道を失うことだってある。
 わからなくても憶えておこう「はずれくじは、ない」と。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「はずれくじ」も、何枚か集めると当たりと交換になるよ。